昭和43年4月5日 朝の御理解
中村良一
おかげは、この、和らぎ喜ぶ心にあると仰せられるのでございますから、なるほど、心を目指して頂くことを願うのです。ところが、なかなか、和らぎ喜ぶ心というのは、そう何時も何時もあるものじゃない。如何にも、豊かな心の様であるけれども、何か、突発的な事が起こってきたり。また、腹の立つような問題が起こってきたり致しますと。これは、和賀心でなかった証拠に壊れてしまう。そして、ほんなもんじゃなかったというのが分かる。そこで、例えば、そのような問題、そのような事柄をですね。私共が、時々刻々に願っておる、今月今日で、一心に願っておる。願っておるという事はですよ。日ごろ頂いておる、信心で見よ、信心で聞けという事なんです。その、腹の立つような問題でも、損になるような事でも、突発的に起きてくる、どういう問題であっても、難儀な事であっても。それはもう、本当に、調子に乗らなければおれない様な、歯の浮く様なお話のような場合もあるかも知れません。それこそ、濡れ手で粟の掴み取りになるようなおかげが、目の前に転がってくるような感じのような事があるかも知れません。そんな時でも、同じなんです。それをです、日頃の信心で見るのだ、日頃の信心で聞くのだ。そこから、はぁ、信心頂いておるという事が有難いなぁ。ここで、おかげを落とさんで済んだ。この問題を、信心で受け止める事が出来た。そこから生まれてくるのが、和賀心なんだ。ね。ですから、和賀心というのは、何時もかつも、そうあるものじゃない、けれども、その事を、信心で見、信心で聞く時にです。信心で接する時にです。日頃、頂いておる御教え、日頃、頂いておる信心が、こういう時に生きてくる。信心頂いておるという事の、有難いという事が分かる。
和賀心で受けんならん、和賀心で受けんならんという事はね。それは有難い、理想的ですけれども。そうばっかりは、いけんのだ。だから、その事を、まず、信心で見るのだ、聞くのだ。それはもう、良しに付け、悪しに付け、そうなんだ。例えば、今も申します様に、素晴らしい良い、ほんなら、お話。金もうけの話でも良いんですよ。すぐ、飛びついてはならんという事。日頃の信心に、何時も、そこにもの言わせる。信心で見、信心で聞く。または、お取次頂いて、そこから、頂ける。特に、例えば、難儀な問題何かの場合ですね。何かの場合なんかは、それを、信心で、見聞きする事によって、信心を頂いておるという事が、有難いという事になるのです。
先日、ある方が、熱心に信心いたしております。娘さんが、縁についておる。まぁ、娘さんの話を聞くと、もう、姑親もなっちゃおらん。もう主人も、どうも可笑しい。そこにおる、姉妹達も、どうも、まるきりその、地獄の中におる様な、自分の娘に見える訳なんです、話を聞いておると。もう、そげなことのごたるならば、ひっ片付けってしもうた方が良か。もう子供は、すっていけたけれども、もう、そげなことは問題じゃなか。もう、娘は、自分のところに引き取ろうという話をしようというお取次を願われた。とても、考えれば、考えるほど、私でも、人間的に、ここで聞かせて貰や、どうした、姑おっかさんじゃろうか。どうした、そういう中にでも、主人さえね、優しから、まぁけども、主人も、そげな風。嫁後の口どんつきよると、勘当さるるち言うげなもん。そげん、弱い事を言うじゃん。それにはその、出戻りさん息子にござるげな。子供連れてから。もう、それこそ、大変な、難儀の中に、自分の娘があるという事は、もう、見るに、親として見られん。そこで、もう、どうでも、いよいよの時には、ひっ片付けてしまうという様なお取次を願われたから、私が、そう、ひっ片付けさせてしまう。別れさせるという事が目的ではなくて、円満に行くなら、円満に行くという事の願いを、前提として、あんた達の言いたい事を、いっちょ、言うてみたら良いかたい。それから先、それをお願いしなさい、という風に、私は申しました。それから、まぁ、いろいろと、教えを頂かれ、その辺の御理解を頂かれたりしておるうちにです。本当に、今、お取次を願った事が、もう間違いであった事が分かった。本当に、これはもう、本当に、もう、それこそ、日頃、信心が出来ておりますから。いわゆる、そういう難儀な問題を、お取次を頂かれたところにです。いわゆる、日頃の信心が、心の中によみがえってきた所にです。これは、自分達が間違うておったという事に気が付いた。ところがもう、本当に、今度は、どういう事になって来るかと言うとですね。あくる日は、本当に、うちの娘のごたるとば、あっちのおっかさんが、使い難かろうという事になって来たのです。なるほど、うちの娘の様な者を、主人が、踏ん切りがつきなさらんのも当たり前。問題といや、ほんな、些細なことが問題であった。もう、そういう様な事を思うてから、日頃の信心は、どこへやらやってしまっておった。本当に、娘は娘なりに、そういう素晴らしい修行をさせて頂いておるのに。修行が大きければ、大きいほど、おかげも大きいと仰るのに。本当に、まぁ、親として、つまらん事を考えたもんであるという事が分かった。
ところがですよね。昨日、お参りして見えてからのお届けに寄りますとですね。今度その、娘さんが生まれてから。初のお節句に、兄弟達も、ぜひ、来てくれという事であったから、兄弟達まで、みんな行った。ところがもう、見ると聞くとは大相違。それこそもう、本当に、勿体ないごと、良いうして頂いた。もう先生、こっちの、そら、そうじゃったかもしれんのじゃったけれども。こちらの気持ちが変わらせて頂いたら、娘の嫁入っておる、その向こうの、雰囲気までが、変わってしまっておるのに、驚いてしもうて、おかげを頂いたと言うて、お届けがあっております。
私が、昔、頂いております、迷信話にね。フグという魚はね。それこそ、天下一品の珍味と言われるほどに美味しい魚である。けれども、一つ間違うと、命にかかわるような事にもなるぞと、こう仰る。これはね、命にかかわるという様な事じゃないけれども。例えば、今の例から申しますとですたい。どうでしょうね、もし、信心がなかって、信心に、日頃の信心がよみがえってこなかったら、お取次を頂いて、お取次のおかげを頂かなかったら、どういう事になっとっただろうか。子供まである仲を、もう、それこそ、無理に、無理にじゃなくて、もう、それこそ、そげん所には、一時も居りなさんなと言うて、引き取ったら、そこからですね。運命が狂うてくるのですよ。なるほど、有難く頂けば、天下一品の珍味であり。ひとつ間違や、命にもかかわると言った様な事は、一生の、いよいよ、不幸の元を作るような事でしょうが。命に関わるでしょうが。ほんの、そこのところの、頂き方一つなんだ。
どうぞ、今、私が申しました事を、もう一遍、よく心に入れて下さい。そしてから、また、今日の御理解を頂いて行かねばなりません。一番初めに、御神訓、今月今日で、一心に頼め。おかげは和賀心にありと。今月今日で、一心に頼むという事は、今月今日、只今という事なんだ。そして、様々な問題、事柄、全ての事がです。良しに付け悪しに付けです。それを、和賀心で見、和賀心で聞くという事は、大変、有難いことだけれども。その、和賀心たるや、どうも、信用がおきない。その証拠には、ちょっとした事が起こってくると、もう、心が曇っておる。今の、その話じゃないけれども、ね。日頃、分かっておる事が、もう、かーっと、ただ、自分の娘の事だけしか思わない。ただ、娘が可愛そうな事だけしか思わない。向こうの、おっかさんの事やら、主人の事やら、全然、思わない。そこに、日頃の教えが、蘇ってきた時に、ね。ですから、結局、そういう問題になった時にですね。いわゆる、そこを、私は、信心で聞け、信心で見よというた訳なんですね。心で、神様の、どういう御都合であろうか。信心で見よ、信心で聞け。そこんところがです。日頃、頂いておる教えが、こういう時ならば、どうする事が本当だと。親先生なら、どうなさるだろうか、という事になってくる時にです。はぁ、おかげ落とさんで良かったという事になるんですよ。それが和賀心、という事を申しましたでしょう。
今日、御神前に、出らせて頂きましたら、頂きます事がね。「せつりゅう」という花がありますね、今。雪竜とかね。あの、米つつじという、小さい、白い花が咲く。あのお知らせはね。皆さん、これは、いうならば、あの椛目の、椛目から合楽にかけての、一つの御理解ですもんね。解釈だから、こういう事は、いっちょ、いっちょ、覚えとかにゃいかん。どういうお知らせを頂いた時には、どういうもんだという事を。あの、米つつじなんかのお知らせは、いろんなお願をしておる時、米つつじのお知らせを頂いたら、はぁ、おかげになる、ままになるというお知らせなんだ。雪竜も、やっぱり、そうなんだ。せつりゅうというのは、雪の竜と書いてある。雪という事は、修行。この修行の向こうにはね、もう、真っ黒い雲がおりてくる時でなからなければ、龍は昇天しないと言われております。それこそ、天にも昇るような勢いで、おかげになってくるというお知らせなんだ。雪竜のお知らせ。ここでは、何時も御理解頂く、神様の心の中には、ちゃんと、その、覚えておろうけれどもね。やはり、それは一つ、覚えておかにゃいけん。私が頂いた、今朝のお知らせは、雪竜であった。もう、雪竜が、もう、こう咲き乱れておる。咲き乱れておると言うよりも、咲き乱れておるものを、こう、器に活けてある中に、きな水仙が、一本入れてある。きな水仙、きなという事は、皆さんがね、色を、紫の色は安心という。赤は、熱情という様に、きなの色はね、おかげになるかならんかの境のところの色だと仰る。きなの色は。そして、私が、先に、御神訓、それから、例を申しました事を、思うて頂くとですたい。大体、意味が分かるでしょう。これは、神様がね、神様が教えて下さる事なんですよ。雪竜の咲き乱れておる中に、きな水仙が一本。私どもの、日々の中にはですね。日々の生活の中にはですね。もう、おかげのチャンスというのは、もう、何時も一杯、傍にあるんだと。お徳を受けさせて頂く機会というのは、もう、何時も、何時もあるのだという意味なんですよ。それを、おかげを頂きたい、おかげを頂きたいと言うて。ここのところを、粗末にしたって、本当のおかげになってくる筈はありません。お徳だって頂けません。
ある、商売人の名人が申しました。金儲けのチャンスというのは、何時も、いっつもあるんだと。やっぱ、私が、今日、分からせて貰った様な所を、商売の目で、やはり悟らせて貰っておられる人であろうとこう思う。商売にですね、儲けるこつ、チャンスというものは、何時もあるんだ。それを、ぐうたらな商人が、全然、気がつかんだけの事だ、という事を申しますが。信心させて頂く者はです。おかげを頂くチャンスというのは、もう自分の周囲に沢山ある。そういう、いわば、おかげの頂けれる、お徳の受けられるチャンスを、それこそ、知らん振りをしたり、蹴散らかして通ったり、向こうの方へ押しやったりしたんでは、おかげは受けられない事が分かるでしょう。私共はね、何時も、そういう、ままになるおかげの頂けれる、ね。これは、信心させて頂く者はですよ。信心させて頂く者は、そういうおかげが、受けられるか受けられないか、何時も、境にあるのだという事なんだ。皆さん、そういう、微妙な中に、私共はあるんですよ、信心させて頂く者は。ですから、もう本当に、傍にあるのですから、おかげは。おかげを頂く、また材料。お徳を頂く材料は、傍にあるのですから。それを、分からせて貰う。それが、ある場合には、腹の立つ問題が起こってきたり、痛い思いをしたり、苦しい思いをしたり、悲しい思いをしたりするような事の場合もあるのです。そこで、私は、今、申しましたように。それをまず、信心で見よ、信心で聞けという、事である。はぁ、こういう時に、はぁよかった、おかげ落とさんで良かった。例えて言うならば、もうね、些細な事ですけれども、ちょっと、上に上がろうと思うたら、下駄が脱ぎ散らかしてあった。心にかかったけれども、すっと上に上がって来た。さぁ、どうも前には行かれん。また、後戻りしてから、下駄を揃えて上がらせて頂いた。ま、例えて言うならね。そこに、実意のおかげの頂けれる。実意の信心の、いわゆる、和賀心の頂けれる材料は、もうそこにもあるという事。例えて言うならですね。例えば、これをほんなら、見過ごして行くような事で、おかげの頂けれる、和賀心の頂けれる筈はない事が分かるでしょうが、皆さん。如何に、実意丁寧神信心という事を言われるかという事が分かる。
私は、昨日、応接間から、初めてあの、庭に、木蓮が咲いておるのを見せて頂いた。気が付かなかった。昨日、初めての発見のように感じた。わぁ、木蓮の花が咲いてる。向こうに目をやると。発心が、もう真っ白に桜の花が、ほとんどもう、満開だろうと思われるくらいに、真っ白だ。これも、昨日始めて見た。昨日の朝、控えに入らせて頂いたら、前に、椿が入れてある。一二輪。それにね、もう水が、しずくが落ちるように水が上がっておる。生きておる印なんだ。水を、どんどん吸い上げておる。もう花にも、葉にも、その露が、一杯当たっておる。水揚げをしておる。今朝、見せて頂いたら、やっぱり同じこと。けれども、もう昨日の花は、もう昨日の花ではない。ちょうど見ごろであった花が、もう今日は、一杯に、こう開いておる。木蓮に於いてもしかりであろう。発心の桜に於いても、同じであろう。もう、時々刻々に変わって行っておる。もう、取り返しがつかない。そういう大事な日々をです。私共がね、迂闊にして過ごしてしまう。もう、時々刻々に、天地のお恵みも変貌しておる訳です。天地の働きも、もう次の、更な物に変わって行きよる。それを、私共が、頂き損ない、見落とし、聞き落とししたんでは、勿体ない話なのだ。そこんところを、ぴちっとその、キャッチして行くというか。すべてを、おかげを頂かせて頂く元に、お徳を頂かせて頂く元にして行く、日々の信心修行。今月今日で、一心に頼め。今月今日で、一心に。今月今日、もう今月今日只今を、一心に願わして貰う。なるほど、どうぞ、私の心に、和賀心をと願うのでございますけれども。願っておるけれども、それが、和賀心でない証拠を、様々な時に感じる。汚い心が起こったり、腹が立ったり、情けないと思うたり。そこで、そういう様な時に、私共が、それを逃さず、まず、信心で見、信心で聞くのである。はぁ、ここは、信心ですれば、どうしなければならないか。信心で聞けば、どういう風に聞かねばならぬか。そして、信心で聞き、信心で見た後に生まれてくる物。はぁ、信心頂いておるという事が有難いという事が分かる。それが和賀心である。この心におかげがある。この心にお徳が受けられるのであります。
今月今日で、一心に頼め。おかげは和賀心にあり。その、和賀心を頂かせて頂くために、私共が、何時も、お徳を受ける、おかげを受けるの、何時も境にある。きなの水仙であるという事。私どもの周辺には,それこそ、雪竜が、または、米つつじが、もう、咲き乱れておるという事。おかげを頂くチャンスは、もう、どこにも転がっているという事。それを、私共は、あまりにも迂闊であった事。それを、手近なところから、実意丁寧、それを神信心で頂く、聞かせて貰う。そこから生まれる和賀心。その和賀心に、おかげがあると仰せられてあるのであると、私は思うです。今日は、御神訓でございましたね。今月今日で、一心に頼め。おかげは和賀心にあるという解釈。同時に、椛目で頂く、御理解の解釈もございましたですね。どうぞ。椛目じゃない、合楽でしたね。